パナムジカ35周年記念オンラインセミナー「世界の音楽出版社シリーズ④ ベーレンライター」(主催:パナムジカ/企画・運営:コーラス・カンパニー) 開催レポート

Requiem K.626 レクイエム(W.A.モーツァルト作曲、オシュトリーガ版)
校訂者たちを悩ませる「未完作品」

未完作品の原典版編集は、これまでにも多くの校訂者を悩ませてきました。現在残されているままの状態で、断章のまま楽譜を出版することも可能ですが、演奏を目的とした楽譜であれば、作品が完結している状態のほうが望ましいものです。

未完の作品としてもっとも有名なもののひとつに、W.A.モーツァルト:レクイエム ニ短調 K.626 があります。既刊のジュスマイヤー版に加え、2022年6月にミヒャエル・オシュトリーガ氏の校訂によるレクイエム新版がベーレンライターから出版されました。この記事では新版の発売に先駆け、2022年2月16日オンラインで開催された「世界の音楽出版社シリーズ④ ベーレンライター」にゲスト登壇したミヒャエル・オシュトリーガ氏の講演内容をご紹介します。

レクイエム新版校訂 ミヒャエル・オシュトリーガ(Michael *Ostryga)氏

(*オシュトリーガ氏の姓が「オストシガ」と表記されている場合もありますが、ご本人から「オシュトリーガ」である旨確認したことをふまえ、以下オシュトリーガ氏と表記します)

ベーレンライター原典版 モーツァルト「レクイエム」新版の校訂を担当したミヒャエル・オシュトリーガ氏は指揮者・作曲家で、多数の合唱作品の演奏や、自身の作品に積極的に合唱を取りいれた作風で知られる。音楽理論の学位を取得しており、特に18世紀当時の音楽理論、晩年のモーツァルト宗教作品における作曲手法の研究を専門とする。演奏活動や委嘱作品の作曲とともに、音楽学者として当時の音楽様式や演奏慣習への造詣の深さを高く評価されている。ケルン大学コレギウム・ムジクム音楽監督。

ジュスマイヤー版とオシュトリーガ版

オシュトリーガ氏は「1791年にモーツァルトが病に倒れることなく、レクイエムを書き切っていたら」という視点に立ち、モーツァルトの作曲手法を用いてレクイエムの断片を補筆。過去の編集者たちによる加筆・編集を削ぎ落し、作曲者が描いた本来の姿に作品を戻す原典版の校訂に着手しました。

モーツァルトの死後、彼の残した借金の支払いに楽譜の売上を充てるため、妻のコンスタンツェの指示でレクイエムは補筆完成されました。ジュスマイヤーによる補筆は歴史となり、現在の演奏慣習のほとんどが彼の版にならっています。

オシュトリーガ版では、ジュスマイヤー版とは異なる視点から資料が検証・校訂されています。そのためベーレンライターでは、音楽史上重要なジュスマイヤー版も絶版にせず、継続して販売することになりました。これまでジュスマイヤー版を愛用していた方も、徹底した源泉資料の検証で定評のあるベーレンライター原典版の「信頼のおける新たな解釈」としてオシュトリーガ版に取り組むことができます。

オシュトリーガ版レクイエムの特徴

オシュトリーガ版のレクイエムには、3つの特徴があります。

1つは、断章の演奏が可能となったことです。スコア、パート譜の両方において、モーツァルト自身の書いた部分が明確に分かるよう、楽譜がレイアウトされました。

2つめは、源泉資料に基づく確からしさの高い部分であるものの、モーツァルト本人が完成させたものではない箇所については、18世紀当時の音楽様式に沿った管弦楽法で演奏できるよう工夫された点です。

3つめに、モーツァルトが作曲していない部分に関しては、モーツァルトの作曲手法にもとづいた補筆で楽章を演奏することが可能となった点です。

これにより、未完作品であるレクイエムを、モーツァルト本人の意図に可能な限り近づけた状態で演奏することが可能となりました。

オシュトリーガ版とジュスマイヤー版の違い① サンクトゥス冒頭 バスのオクターヴ

ジュスマイヤー版では、サンクトゥスの冒頭が密集配分(4声が1オクターヴ以内に収まった状態)になっています。しかしモーツァルトの宗教作品では、このような状況に密集配分が使われたことはほとんどありません。さらに前楽章(オスティアス)からサンクトゥスへの移行部分では、バスのメロディにオクターヴ配分を含む大きな跳躍が見られますが、このような動きが他の作品で出てきたこともありません。

オシュトリーガ版ではこの部分について、モーツァルトの作曲手法を詳細に研究した結果、4つの声域を解離配分(4声を1オクターヴより広い音程で配置したもの)で重ねる方法を提案しています。これにより、オシュトリーガ版のサンクトゥス冒頭のバス音は、ジュスマイヤー版より1オクターヴ低くなりました。

この校訂は、キリエ 変ホ長調 K.322 (296a)のキリエの冒頭で、モーツァルトが解離配分を使っていることからも妥当であると言えます。サンクトゥス楽章の冒頭部分は、キリエ楽章の冒頭部分と似た動きになるのが通例です。しかも冒頭を解離和音とすることで、ホモフォニー(和声重視の単旋律)的に書かれた声楽部に対し、対位法的なアプローチを施すことが可能になります。

解離和音であれば、テノールの旋律はアルトとの間隔を保ちつつ、ソプラノの旋律と逆方向の動きを取ることができます。和音的にも基本形と転回形とを同時に聞くことができます。同じテクニックがレクイエムの最初の三聖頌(さんせいしょう、サンクトゥスと3回繰り返す部分)にも用いられています。

オシュトリーガ版とジュスマイヤー版の違い② ラクリモーサ

オシュトリーガ版では、ラクリモーサにアーメン・フーガのスケッチ(草稿)が採用されています。モーツァルトが思い描いていた作品の姿にアーメン・フーガが含まれていたかどうかについては、信頼に値する資料がなく判断が不可能です。スケッチから引用された部分の歌詞はイタリック(斜体)で表記されているので、アーメン・フーガを歌うか歌わないかの判断は演奏者に委ねられています。

全編を通して、楽譜部分のレイアウトは、演奏に支障が出ないよう必要な情報を表記するのみに留めています。校訂者がこれまでの版と違う情報を楽譜に載せた場合には、かならず脚注または校訂報告書に記録を残し、判断に至った経緯が明記されています。断章を演奏する際にも、モーツァルト本人が作曲した部分は読み手に明確に分かるよう、レイアウトや文字のフォントなどにさまざまな工夫がなされています。

オシュトリーガ版には、他のすべてのベーレンライター原典版と同様、作品の歴史、当時の作品に対する反応、作品の分析や様式についての解説、補筆版の一部に対する記事など、作品の全体像を理解するのに役立つ資料が含まれています。

オシュトリーガ版とジュスマイヤー版の違い③ サンクトゥスの調性

オシュトリーガ版レクイエムでは、サンクトゥスをこれまで通りニ長調で始めることも、ニ短調で始めることもできます。サンクトゥスをニ短調にすることで、変ロ長調であるジュスマイヤー版のホザンナへの流れがスムーズになります。モーツァルトが本来残したかったサンクトゥスの姿がニ長調であったか、ニ短調であったかは現存する資料だけでは判断できないため、どちらを選ぶかは演奏家次第になります。

オシュトリーガ版レクイエムを聴くには

2019年8月、ルール・コーアヴェルクとコンチェルト・ケルンが、有名なラインガウ音楽フェスティバルでオシュトリーガ版のレクイエムを演奏しました。オシュトリーガ版レクイエムはCD、Spotify、YouTubeで視聴可能です。

Spotify
https://open.spotify.com/album/58EMbkAU3LunidOPSKMj5A

YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_knnorjBxtEJlEBYZL9v1h9-StQIWOoYT8

2021年、このCD作品はドイツのクラシック音楽界で最も権威ある賞のひとつ、オーパス・クラシック賞の年間編集功労賞にノミネートされました。音楽学における最新の発見を常に反映し続けるベーレンライター原典版は世界各地のオーケストラから厚い信頼を得ており、長い時間をかけて作品と向き合う心強い伴走者として、多くの音楽家たちから愛用されています。

世界の音楽出版社シリーズ

オシュトリーガ氏が登壇した2月のオンラインセミナーでは、講師として国際営業部長のコリン・フォテラー氏、合唱作品の原典版を校訂している編集者シュテファン・グロス氏の2名も登壇。レクイエムの他にも、ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」、J.S.バッハ「ロ短調ミサ曲」の2曲について、通訳を交えた講演が行われました。ベーレンライターの歴史、原典版編集のプロセス、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスを例にとったシュテマ(源泉資料の相関図)の読み方についての解説、ファクシミリの画像を見ながら、作曲家の記譜のくせから失われた情報を読み解く方法、資料の保存状態によっては、古い時代の資料のほうが役立つ場合もあることなど、原典版にまつわるさまざまなトピックを網羅したセミナーとなりました。

翻訳・編集:中島小百合(音楽通訳)

ミヒャエル・オシュトリーガ「モーツァルト・レクイエム」の完成を語る

Part 1

Part 2

Part 3

Part 4