「安田寛の楽しいニッポンの音楽論」第3回の中で展開された安田先生の「日本語とリズム」の考えに対して、視聴者として参加されていた作曲家・寺嶋陸也氏から鋭く、温かいご批判をいただきました。そこでこの重要な問題についてもっと深く掘り下げるべくこの「番外編」は企画されました。私たちが歌う「日本語の音楽」のリズムはいったいどうあるべきなのか、作曲家と音楽学者、双方の立場からの考えを聞くことができる意義ある機会となることでしょう。

講座概要

講師 寺嶋陸也(作曲家)
安田寛 (音楽学者・奈良教育大学名誉教授)
企画・聞き手 坂元勇仁 (レコーディング・ディレクター、大阪芸術大学客員教授)
講座タイトル 安田寛の楽しいニッポンの音楽論~ 唱歌・童謡・歌謡曲、そしてJ-POPまで
[番外編]
徹底討論 作曲家 寺嶋陸也 vs 音楽探偵 安田寛
「日本語とリズム 作曲家はこう考える」
日時 2020年7月15日(水)19時~20時30分 (受付開始30分前)
受講料 500円+税

※このオンライン座談会は、Zoomの「ウェビナー」システムを利用して行います。受講者は音声、ビデオともオフの状態での参加となります。

※PC、iPad、iPhone、Androidなど様々なデバイスからご参加いただけます。
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企画発案者 坂元勇仁さんからのメッセージ

6月24日、安田寛さんとのトークが終わった日の深夜、作曲家の寺嶋陸也さんからメールが入った。なんだろうと思い開いてみると、そこにはWord 3ページにわたってビッシリ書かれたセミナーの「感想文」が添付されていた。しかし「感想」とはあるが、実のところ極めて精緻にセミナーの内容に食い込み、さらに安田説への疑問を呈する「批判」の文書だった。かなり僕自身ハイになりつつすぐにそれを安田さんに転送した。安田さんがいったいどんな反応をするか戦々恐々としていると「すごい、すごい批判だ、そして鋭い。こんな批判を僕は欲しかった」というメールが届いた。それならば「公開で討論をしませんか」と僕は安田さん、寺嶋さんに提案してお二人から快諾をいただき、今回の企画と相成った。寺嶋陸也さんは安田理論のどこに異を感じ、あの長い「手紙」を書いたのか、その意図するところはどこにあるのか?そして安田さんはそれをどう受け止め、反論するのか、あるいは作曲家の前にひれ伏すのか。これは日本語を扱う音楽ジャンルに生きる人々がリアルタイムに「場」を共有し、ともに日本語とリズムについて考える時間となるはずだ。ぜひとも万難を排してご参加いただきたい。尚、ご参加下さる方はぜひ寺嶋さんからの手紙が公開されているので、それをお読みになって参加していただきたく思う。さぁ、意義ある討論が始まる!!                       

《寺嶋陸也氏からの第3回セミナーへのご感想》 ※ご本人の同意を得て掲載しております。

安田寛先生毎週興味深いお話ありがとうございます。本日のレクチャーで疑問に思ったことがありますので書きます。

「文節」と「切点」の話のなかで、「絵はがき」の例が出されました。「え/はがき」と切るのではなく、言葉のリズムとしては「えは/がき」と切る、という話が出たので、意味とは関係なく言葉が切れるのはなぜか、そこにどういう法則があるか、というふうに話が進むことを期待したのですが、結局、切点とは意味の切れ目で、「単語」よりは大きい意味の切れ目が文節であり、文節の最初のシラブルにはストレスアクセントがある、ということですね。
「絵はがき」の話が置いてきぼりになってしまったのが残念です。

文節の頭が小節線のすぐ次に来るかどうか、ということを分析なさっておられましたが、興味を持って聞かせていただきました。
しかし、「文節の頭と小節の頭が一致していること」がどのくらいあるかを数え、それが多いほど日本語を大切にしている(日本語の性質にそっている、ということでしょうか)こととし、J-popのように一致度の低いものは言葉を大切にしていないものである、というように話をもっていくすすめかたには、大いに疑問を感じました。

ある曲の中で小節線のすぐあとに文節の第1音が来ていれば「1」そのほかはすべて「0」としてその割合を表示して下さいましたが、「1」のほかがすべて「0」とされていることは、その「0」の中味がどうなっているのか、ということが全く考慮されていない、という点で、非常に乱暴な分析のしかたであると思います。
「0」の中には、小節の1拍前から始まる(たとえば「朧月夜」)場合もあれば、小節線のあとに休符がある場合(たとえば「ビリーブ」の途中「せかいじゅうの」など)があります。アウフタクトで始まるのか、または休符をおいて始まるのか、そしてその休符がどのくらいの長さか、によって、そこで発せられる言葉がもつインパクトは全く異なりますから、それらをすべて等しく「0」としてしまうのでは、たとえ四分音符しか出てこないような曲でさえも、意味のある分析にはならないと思います。また、4拍子の曲で3拍目に文節の頭が来る場合には、実質的には小節線のすぐあとに文節の頭が来ているのと同じ、といえる場合も少なからずあります。(「ビリーブ」にはそういう箇所がいくつもあります。)
「二十億光年の孤独」と「新しい人に」では、どういうところに「1」があるか、を丁寧に分析なさっていましたが、15パーセントしか「1」が無いということをもって「変だ」と断じられた拙作の「変」にしても、どういう場合に「1」なのか、そして「0」の中にどれだけの多様性があるのかを少しでも見ていただければ、どのような方法で私が日本語を生き生きと伝えようとしたのかをご理解いただけると思います。
そしてこの分析では「小節線のあとの最初の拍は強拍である」ということが、大前提となっていますね(そうでないと、ストレスのかかるシラブルが「小節線のすぐあと」にある「1」の意味が成り立ちません)。しかし、それは唱歌や多くのポップスには当てはまっても、Nコンの課題曲のような合唱曲においては必ずしもあてはまるとは言えないと思います。仮に「小節線のあとの最初の拍は強拍である」ということを受け入れたとしても、かならずその1拍目が強く演奏されるわけではないので、そこに文節の頭が来ることに、特別に意味があるとは思えません。もちろん、そこに大きな意味を持たせる曲を作ることは可能で、それは木下さんや信長さんの曲で分析されたとおりですし、むしろ強拍とストレスの強さを一致させないこと、一致させずに多様なリズムを与えることで言葉が生きるようにする、ということを目指すほうがはるかに多いというのが作曲する側の実感です。「一致させない」という方向は、Jpopの多くのものもそうだろうと思います。「日本語を生かす」「言葉を伝える」ためにそうしているのかどうかは別ですが。

質問なさった方へのお答えの中で、先生は「日本語にはアウフタクトという感覚が無い」という意味のことをおっしゃっていました。しかし、ここでは西洋音楽と日本語との関係を論じているわけで、言葉にアウフタクトの感覚があるかどうかではなく、音楽にアウフタクトがある以上、それに言葉がどう乗るのか、ということが問題になると思います。
「朧月夜」や「蛍の光」は、1拍ずらせば一致率100パーセントになる、という話も、もしそう言ってしまうと、文節の頭が小節の頭に来ようがどこに来ようがどうでもいいことになってしまいます。1拍ずらせば100パーセントになる、ということは、全曲にわたって同じパターンで曲ができていることを示しているに過ぎません。「朧月夜」のようにアウフタクトで作曲されている場合、もしそれが1拍目から開始されていた場合とどのような違いがあるのか、ということこそ問題にするべきではないでしょうか。おそらくそのこととも関連するでしょうが、「え/はがき」ではなく「えは/がき」のように、意味とは関係なく日本語が切れる(というよりは、切れるようなリズムを感じる)のはなぜか、切れ方には法則があるか、どういうリズムをもったときに自然に感じられるのか、または不自然に感じられるのか、というあたりまでいかないと、日本語とリズムの話にはならないように思います。

NHKの合唱コンクールのありかたを批判するという目標があったにせよ、ざっと以上のような観点から、今日の話に疑問を感じました。

J-popがコンクールの課題曲に使われる(もしくは課題曲がJ-popとして作曲される)ことについては私も大反対です。
J-popが日本語を粗雑に扱っている、と私も感じることが多いですが、コンクールにおける問題点はそこよりもむしろ、少し触れられていた商業性や、少し別のところにあると思っています。
私が一番問題だと思うのは、一人でマイクを通して聞かせるための歌を大勢で合唱する、という点です。さらに歌い手の個性に大きく依存して作られるJ-popのような曲を合唱で歌うことの無意味さは百害あって一利なしと思います。
また、もうひとつの問題点として、歌や言葉のリズムにも関わることですが、演歌や歌謡曲も含め「歌いくずし」が歌手の個性として普通に行われる歌で、「歌いくずし」のような細かいリズムやこぶしが記譜されることの問題も大きいと思います。楽譜にはふつう記されないような節・リズム双方の「ゆれ」が、ポップス一般には不可欠ですが、その「ゆれ」が記譜されたものを合唱で歌うことには、たとえて言うならケーキを箸で食べるような大きな違和感が伴います。J-popのような音楽において、楽譜が果たす役割は非常に少なく、それを「合唱曲」として楽譜に書き表す、ということがそもそも無意味であると私は考えます。コンクールで行うような「合唱」はあくまでも楽譜を介しての演奏なので、ついでに言うなら、いままでずっと行われている「模範演奏」も無いほうがいいと思いますし、自分で楽譜を読まずにすぐ「音源」をほしがる多くの合唱関係者の風潮も、嘆かわしいことと私は思っています。
J-popがコンクールで使われることの問題点は、日本語で歌う/日本語を歌うことの問題よりも、音楽のありかたそのものの問題に根ざしていると思っています。

以上私のほうも乱暴ではありますが、お話を伺った感想を綴らせていただきました。もちろん私も疑問に思った事への回答を持ち合わせているわけではなく、ひきつづきお話を伺っていきたいと思います。お読みくださってありがとうございます。次回も楽しみにしています。

寺嶋陸也

《安田寛氏から寺嶋陸也氏への返信》 ※ご本人の同意を得て掲載しております。

寺嶋陸也先生、昨日はありがとうございました。

貴重な時間を割いて,こんなにもしっかりとしたご批判を書いてくださり,ありがたい限りです。痛烈で、痛快で、実に気持ちの良いご批判です。少し変な言い方かも知れませんけれども、これほど深い理解をいただけるとは、さすが寺嶋先生だな、と思いました。ご批判のすべての観点が最も重要なところを突いています。

私の新しい理論にとって、今、最も必要な事は、作曲者や短歌を詠まれる方からの率直なご批判をいただくことです。それに鍛えられ、それに耐えられることができたならば、理論が理論としてようやく通用するようになると考えています。

ですから,寺嶋先生からのご批判は,今,私が最も欲しいものでした。ですから,とても感謝しています。ありがとうございます。

しかし、贅沢な望かもしれませんが、これで終わらせずに、ご批判の一つ一つについて丁寧にお答えさせていただき、皆様とさらに日本語の合唱曲への理解を深めていくことができたなら、まさに望外の幸せです。

いずれにせよ、今回の分析によって、寺嶋陸也作品について,これまで以上に興味が湧いてきましたので、さらに分析を進めていきたいと思っております。

それは、今回,0(ゼロ)で取りこぼしたものをすくいあげて、作曲家がいかに日本語を精緻に扱っているか、それをわかりやすい形で示せるのではないか、と思っています。

また何かの機会に,ぜひご批判をいただきたいと切に願っております。

最後になりましたが、今後のますますのご活躍を楽しみにしております。

安田 寛

プロフィール

寺嶋陸也(てらしまりくや)

東京芸術大学音楽学部作曲科卒、同大学院修了。オペラシアターこんにゃく座での演奏や、パリ日本文化会館における作品個展「東洋・西洋の音楽の交流」などは高く評価された。『グスコーブドリの伝記』『ヒト・マル』『末摘花』『ガリレイの生涯』などのオペラや、室内楽、合唱曲、邦楽器のための曲など作品多数。ピアニスト、指揮者としても活動し、「大陸・半島・島/寺嶋陸也作品集」「寺嶋陸也plays林光」「寺嶋陸也ピアノリサイタル~シューベルト3大ソナタを弾く」など多くのCDがある。お茶の水女子大学文教育学部非常勤講師。

安田 寛(やすだひろし)

1948年、山口県生まれ。1974年国立音楽大学大学院修士課程終了。2001年奈良教育大学教授。2013年定年退職し現在奈良教育大学名誉教授。2001年放送文化基金賞番組部門個別分野「音響効果賞」、2005年社団法人日本童謡協会日本童謡賞・特別賞。主な著書に、『唱歌と十字架 明治音楽事始め』(音楽之友社、1993年)、『日韓唱歌の源流 すると彼らは新しい歌をうたった』(音楽之友社、1999年)、『唱歌という奇跡 十二の物語』(文春新書、2003年)、『バイエルの謎 日本文化になったピアノ教則本』(音楽之友社、2012年、新潮文庫、2016年)、共著に『仰げば尊し―幻の原曲発見と『小学唱歌集』全軌跡』(東京堂出版、2015年)などがある。